
気になる・イメージ
斉藤由貴さんの家系図には、母方の水島家と父方の斉藤家それぞれに深い歴史と多彩な人物が登場します。水島家は帯仕立て職人としての伝統を受け継ぎ、聴覚障害を抱えながらも社会に貢献した祖父母の姿が印象的です。
斉藤家は秋田の素封家から始まり、曽祖父の事業失敗や仙台への移住といった波乱の歴史を経て現在へと続いています。
家族構成には防大出身の兄や芸能活動歴のある弟、長男の学歴情報などもあり、それぞれが異なる道を歩んでいます。
また、渡辺家の名家伝説や元夫との結婚と離婚の経緯など、斉藤由貴さんの人生を形作る重要な要素が詰まっています。
記事のポイント
①:斉藤由貴さんの母方と父方の家系図の流れと歴史
②:祖父母や曽祖父の職業と社会的な背景
③:兄弟姉妹や子供たちの学歴と経歴
④:結婚と離婚、渡辺家にまつわる名家伝承
斉藤由貴の家系図と家族構成の詳細
- 家系図に見る母方・水島家の歴史
- 両親 ろうあ者である祖父母の背景
- 家族構成と帯仕立て職人の伝統
- 防大出身の兄について
- 弟の現在の活動と芸能界での過去
- 長男の大学はどこ?息子の学歴情報
家系図に見る母方・水島家の歴史
斉藤由貴さんの母方・水島家の歴史には、多くのドラマや社会的意義が詰まっています。まず、水島家は横浜市南区に家業として「水島帯裁縫所」を構え、着物の帯の仕立て職人として知られてきました。母方の祖父・水島吉男さんは、2歳のときジフテリアによる高熱が原因で聴力を失い、その後は東京聾唖学校へ進学しました。学校卒業後は裁縫の腕を活かし、職人として家業を発展させました。
水島吉男さんは、職人であるだけでなく社会的にも大きな貢献をしています。例えば、日本聾唖協会横浜部会の設立や、聴覚障害者の就労支援、選挙演説への手話導入運動などを行いました。これにより、水島家は社会貢献と伝統の両方を重んじる家系となりました。
特に注目されるのは、昭和33年、皇太子ご成婚時に正田美智子さんから帯の注文を受けたことです。職人としての技術が、国家的な晴れ舞台でも認められた出来事でした。
さらに家系図を遡ると、曽祖父の水島吉太郎さんは、当時の花形産業である鉄道官僚として全国を転勤し、「米沢保線区技手・判任官1等2級」という高い地位を築きました。ただし、家庭を顧みない働き方や各地での女性関係もあり、最終的には離婚しています。その結果、祖父・水島吉男さんは母と離れて暮らすことになりました。
また、曽祖母・弘子さんは静岡県島田市の名家「渡辺家」の出身であり、渡辺家は江戸時代から庄屋を務めるなど地域で信頼の厚い家系です。父・渡辺真一さんは明治時代に五和村の戸長も務めました。
人物名 | 続柄 | 時代 | 役割・経歴 | 備考 |
---|---|---|---|---|
水島吉男さん | 祖父 | 昭和 | 帯職人、社会活動家、聾唖協会設立 | 正田美智子さんの帯を仕立てた |
水島吉太郎さん | 曽祖父 | 明治~大正 | 鉄道官僚(米沢保線区技手・判任官1等2級) | 全国転勤、離婚歴あり |
弘子さん | 曽祖母 | 明治 | 渡辺家三女 | 島田市の名家の出身 |
渡辺真一さん | 高祖父 | 明治 | 五和村戸長 | 江戸時代から続く庄屋の家系 |
このような家族のエピソードを知ることで、水島家が単なる職人の家にとどまらず、社会に広く貢献し、歴史的な重みを持つ家系であることがよく分かります。困難を乗り越えながら家業や伝統を守り抜いた姿は、多くの人に感動と学びを与える歴史と言えるでしょう。
両親 ろうあ者である祖父母の背景
斉藤由貴さんの家系を語るうえで、母方の祖父母が「ろうあ者」であることは大きな特徴として挙げられます。祖父・水島吉男さんは、幼い頃にジフテリアによる高熱の影響で聴力を失いました。これは2歳のときに発症したと言われており、現代の医療環境では予防可能な病気でも、当時は重篤な後遺症をもたらすことがありました。吉男さんは11歳で東京聾唖学校に入学し、裁縫科で学ぶ道を選択します。なぜ裁縫科を選んだのかについては、将来の自立や就職のことを考えての判断だったと伝わっています。
東京聾唖学校を卒業した吉男さんは、帯の仕立て職人として生計を立てました。1920年代から1930年代は、和服文化が日常に根付いていた時代です。着物の帯を仕立てる職人は、地域の生活を支える重要な存在でした。やがて27歳で同じく聴覚障害を持つ女性・君子さんと結婚し、家族を築きます。この結婚は、聾唖学校での出会いがきっかけでした。
一方で、当時は聴覚障害者に対する社会的な理解が進んでおらず、多くの偏見や差別に直面していました。実際に、吉男さん夫妻は自分たちが聴覚障害者であるために、長女と次女を一時的によそに預けて育ててもらう決断をしています。これは、言葉の習得や社会性の面で健聴者家庭の方が有利だと考えられていたためです。後に生まれた三女(斉藤由貴さんの母・淳さん)からは、自宅で育てる方針に変わりました。
また、水島吉男さんは自らの障害を逆手に取り、社会活動にも積極的に取り組みました。戦後は「水島帯裁縫所」を再興し、聴覚障害者を積極的に雇用しながら事業を拡大。地域の障害者たちの雇用機会を創出し、社会的な自立を助ける役割も担ってきました。さらに、日本聾唖協会横浜部会を創設し、聴覚障害者の権利擁護や選挙演説に手話通訳を導入する運動も主導しました。こうした活動は現代のバリアフリー社会の先駆けとも言えるものです。
昭和33年には、皇太子妃正田美智子さんの婚礼用の帯を仕立てるという名誉も経験しています。これは職人としてだけでなく、人としての信頼と技術が広く認められていた証しです。一方、社会からは「唖の子だ」といった心無い差別も受け、時には駅で「聾が来た」と追い払われるような体験もしています。それでも吉男さんは「また来ればいい」と笑顔で子供に伝えたと言われています。
このように、斉藤由貴さんの祖父母は、困難な時代を自分たちの力で切り拓き、家族や社会に大きな影響を与えました。彼らの歩みは、単なる障害者の枠を超え、努力と誇りをもって生きる姿勢を次世代に伝え続けているのです。
家族構成と帯仕立て職人の伝統
斉藤由貴さんの家族構成は、一般的な芸能人家庭とは異なる特徴が多く見られます。まず、斉藤由貴さんは神奈川県横浜市南区の出身で、4人きょうだいの3番目に生まれました。家族は両親・姉・兄・本人・弟の6人で構成されています。母親の斉藤淳さん、父親の斉藤勉さん、姉、兄、防衛大学校(防大)志望とされる兄弟、俳優活動歴のある弟・斉藤隆治さんなど、多彩な家族背景が特徴的です。
家業である帯仕立て職人の伝統について説明します。斉藤家の母方である水島家は、着物の帯の仕立て職人として代々続いてきました。横浜市南区で「水島帯裁縫所」という店を構え、母方の祖父・水島吉男さんは、戦後の昭和25年にこの店を再興し、聴覚障害者を雇いながら事業を発展させてきました。祖父は聴覚障害者の社会的地位向上にも尽力し、日本聾唖協会横浜部会の創設に関与したことでも知られています。
母方の祖母・君子さんもまた聴覚障害を持ちながら、帯の仕立ての技術を家族と共に支えてきました。こうした職人家系の中で育った斉藤由貴さんも、子供の頃は仕事を手伝った経験があるそうです。このような家庭環境は、家族の絆や伝統への誇りを強く育む一因となりました。なお、帯仕立ての技術が高く評価され、昭和33年には皇太子妃・正田美智子さん(現・上皇后)の婚礼用の帯を仕立てるという名誉も得ています。
名前 | 続柄 | 職業・役割 | 備考 |
---|---|---|---|
斉藤由貴さん | 本人 | 女優・歌手 | 家業の手伝い経験あり |
斉藤勉さん | 父 | 家具職人→帯仕立て職人 | 仙台出身。家業を手伝い、モルモン教信者 |
斉藤淳さん | 母 | 帯仕立て職人 | 水島帯裁縫所を受け継ぐ |
姉 | 姉 | 不明 | 姉の娘が声優・芹澤優さん |
兄 | 兄 | 防衛大学校志望 | 学歴や詳細な経歴は非公開 |
斉藤隆治さん | 弟 | 元俳優 | 芸能界で活躍後は一般人 |
水島吉男さん | 祖父(母方) | 帯仕立て職人・社会活動家 | 聾唖協会設立、障害者雇用、帯技術の名工 |
君子さん | 祖母(母方) | 帯仕立て職人 | 聴覚障害を持つ |
帯仕立て職人としての伝統は、家族の誇りや地域社会への貢献、障害者支援など、多くの側面を持っています。一方で、職人の世界は厳しい競争と高い技術力が求められるため、努力と工夫が欠かせません。
時代の変化で和装需要が減る中、家族で知恵を絞り、技術と伝統を守り抜いてきた背景も見逃せない点です。家族の絆や地域への貢献も強く意識された家系といえるでしょう。
防大出身の兄について
斉藤由貴さんの家族について調べていくと、兄が防衛大学校、通称「防大」出身という情報が複数のメディアで取り上げられています。防衛大学校は神奈川県横須賀市にあり、国防を担う自衛官の幹部候補生を育てる日本屈指の教育機関です。斉藤由貴さんの兄がどのような経緯で防大を目指すことになったのかは詳しく語られていませんが、家庭がまじめなモルモン教徒であることや、厳格な父親の教育方針が影響した可能性は高いと考えられます。
実際に兄が防衛大学校に入学したのは1980年代前半と推定され、当時は入学難易度も高く、国防に強い関心を持つ若者や規律を重んじる家庭から多くの学生が集まっていました。防大では通常、4年間の学業と厳しい訓練を受け、卒業後は幹部自衛官として各地に配属されるのが一般的です。斉藤由貴さんの兄も、卒業後は自衛隊のいずれかの部隊で勤務した経験があるのではないかと考えられます。
また、兄は家族の中でも特に成績優秀で、学生時代は男子からも女子からも人気があったというエピソードが紹介されています。斉藤由貴さん自身も、子供のころから兄を尊敬し、兄の存在が自分の生き方や考え方に少なからず影響を与えていると話したことがあります。ただし、兄の具体的な自衛隊での経歴や、退職後のキャリアについてはほとんど公開されていません。
一方で、兄は芸能活動やテレビ出演などには一切関与しておらず、一般人として静かな生活を送っていると見られています。斉藤由貴さんがテレビや雑誌などで家族について語る際にも、兄については「立派な仕事をしている」「兄は私よりもずっと努力家だった」といった形で尊敬の念を持って言及してきました。
また、家族内では兄の進路が模範となった部分も多く、他のきょうだいもそれぞれの道で努力することの大切さを学んだと言われています。防大卒業生の多くは社会で幅広い分野で活躍しているため、兄もその例に漏れず、現在も真面目で責任感の強い人物として家族や周囲から信頼されているようです。防大出身であることは、斉藤由貴さん一家にとっても大きな誇りのひとつになっています。
弟の現在の活動と芸能界での過去
斉藤由貴さんの弟である斉藤隆治さんについても、興味深い経歴があります。隆治さんは1968年8月生まれで、1990年代にホリプロに所属し、俳優としてドラマや映画に出演した経験を持っています。特に1990年代前半には、テレビドラマや舞台への出演を重ね、シングルやアルバムのリリースも行い、自身で作詞も手がけるなど多才な活動をしていました。隆治さんは、姉である斉藤由貴さんの活躍と並び、若い世代を中心に注目を集めた時期がありました。
芸能界で活動していたときは、爽やかなルックスと誠実な人柄で人気を集め、バラエティ番組への出演もありました。また、歌手活動を行った際には斉藤由貴さんと同じく作詞も担当し、自分なりの音楽スタイルを確立しようと努力していました。こうした経験は、隆治さんの人生において貴重な財産となったはずです。
しかし、徐々に芸能活動は控えめになり、近年は表舞台に姿を見せることはなくなっています。現在の隆治さんについては、芸能界を離れ、一般の仕事に就いていると報じられています。具体的な職種や勤務地は明らかにされていませんが、安定した生活を送っていると伝えられています。芸能界で得た経験や人脈は、今の生活や仕事にも生きていることでしょう。
斉藤家は兄弟姉妹それぞれが違う道を選びましたが、家族のつながりは強く、イベントや家族行事の際には集まることも多いようです。芸能活動をしていた時代の隆治さんの存在は、斉藤由貴さんの人生や価値観にも影響を与え、姉弟の関係もより深いものとなったことでしょう。
一般社会で働くようになってからも、隆治さんは周囲から信頼される存在として評価されています。過去の芸能活動についても悪い噂はなく、真面目に努力し続ける姿勢が、多くの人に良い印象を与えているようです。芸能界から一般社会へと転身した経歴は、今後の人生においても大きな糧になるはずです。
長男の大学はどこ?息子の学歴情報
斉藤由貴さんの長男がどの大学に進学したのか、また学歴や進路についてはファンやメディアの間でも大きな関心が集まっています。斉藤由貴さんは3人のお子さんを持つ母親で、長女は女優・水嶋凜さんとして活動していますが、長男に関しては比較的プライベートな情報が守られている傾向があります。そのため、公の場で長男の名前や進学先を明かしたことはありません。
長男が大学進学を果たしたのは2000年代後半から2010年代初頭と見られ、斉藤由貴さんの家庭は横浜市南区に実家があるため、地元の学校や首都圏の有名大学への進学が予想されていました。しかし、実際にどの大学に在籍していたのか、また何を学んでいたのかについては明らかにされていません。
一方で、長男は幼少期から母親の影響を受けて教育熱心な環境で育ったとされています。斉藤由貴さん自身が子育てに関して著書を出すなど、子供の成長を重視した家庭教育方針を持っていたこともあり、息子も真面目で努力家な性格に育ったと語られています。また、語学学習にも熱心で中国語を勉強していたという情報もあり、国際的な視野を持つ人材として成長していると見られます。
家族や親戚の間でも、長男の進路については応援の声が多く、斉藤由貴さんはインタビューなどで「息子は自分のやりたいことを見つけて頑張っている」と発言しています。芸能界に進んだ長女・水嶋凜さんとは異なり、長男は一般の道を選んだようです。ただし、母親が有名人であることから、プライバシー保護のため詳細な情報は公開されていません。
こうした事情を考えると、長男は大学生活を通じて多くのことを学び、社会で活躍できる素地を身につけていると想像できます。親の期待や注目を一身に受ける立場でありながらも、自分らしい道を歩んでいることがうかがえます。今後の活躍にも注目が集まる存在と言えるでしょう。
斉藤由貴の家系図に見る父方のルーツ
- 父親・斉藤家の出身地とルーツ
- 元夫との結婚と離婚の経緯
- 曽祖父の事業失敗と移住の歴史
- 家系図に登場する渡辺家の名家伝説
- 祖父母の仕事と戦後の活躍エピソード
父親・斉藤家の出身地とルーツ
斉藤由貴さんの父親である斉藤勉さんのルーツをたどると、秋田県横手市が出身地として知られています。斉藤家は元々、秋田県の中でも比較的豊かな「素封家」として知られ、代々農業や地域の仕事に従事していた家系でした。横手市は、豊かな自然と雪深い気候で知られる東北地方の町です。歴史ある農村部に生まれ育った斉藤家は、土地に根付いた暮らしと、地元の人々との結びつきを大切にしてきました。
しかし、斉藤家の曽祖父・斉藤巳之助さんの時代に家運が大きく揺れます。巳之助さんは農業や荷馬車業などさまざまな仕事に挑戦したものの、経済的な苦難や失敗が続きました。最終的に、事業に行き詰まり、妻子を地元に残したまま新たな仕事を求めて仙台市へ移住するという選択をしています。このような経緯から、当時の戸籍にも「不自然な形で除籍されている」といった記録が残っており、家族に大きな衝撃を与えた出来事だったようです。
巳之助さんの子であり、斉藤由貴さんの祖父にあたる巳一郎さんは、父親が家を出たことで幼少期を母親と離れて暮らすことになりました。生活は決して楽ではなく、近所の人から貰い乳を受けるなど苦しい環境で育っています。しかし、その後、巳一郎さんは官営の専売局に就職し、社会的に安定した地位を手に入れました。専売局時代には、職場で「キヨさん」と呼ばれる女性と出会い、結婚しています。この2人の間に生まれたのが斉藤勉さんであり、彼が後に横浜へ移り、家具職人や帯仕立て職人として家族を支えていくことになります。
秋田から仙台、さらに横浜と移動してきた斉藤家は、時代の流れや経済状況に応じて、職業や生活の場を柔軟に変えてきました。父親である斉藤勉さんも、幼少期に両親の離婚を経験し、苦労しながら県立高校を卒業、その後は職人としての技を磨いていきます。現在では、東北のルーツと横浜での新しい暮らし、両方のエッセンスが家族に受け継がれているのです。家系図から見ると、地域のつながりや家族の団結力が、世代を超えて大切にされていることが分かります。
元夫との結婚と離婚の経緯
斉藤由貴さんは1994年に、一般男性である小井延安さんと結婚しました。2人が出会ったきっかけは、共通の信仰であるモルモン教の集まりで、当時すでに斉藤由貴さんはトップアイドル、女優として活躍中でした。一方、小井延安さんは斉藤由貴さんの1歳年上で、サラリーマンとして働いていました。2人の結婚は、芸能界のみならず世間でも大きな話題となりました。
結婚後、夫婦は横浜市南区の斉藤由貴さんの実家近くで新生活をスタートします。家庭では3人の子供に恵まれ、長女・水嶋凜さんは芸能界デビューを果たし、息子と次女も誕生しています。斉藤由貴さんは、子育てと芸能活動を両立しながら、育児エッセイ本を出版するなど家庭人としても積極的に活動してきました。夫婦仲は表向き円満とされていましたが、2000年代以降はたびたび斉藤由貴さんの不倫疑惑が週刊誌に取り上げられ、家族関係にも影響を及ぼします。
とくに2017年のW不倫報道では、相手が都内のクリニック院長という点や、衝撃的な写真が流出したことで、夫婦のプライベートな問題が大きく世間の注目を集めました。この一件では斉藤由貴さん自身も謝罪し、公の場で騒動についてコメントを発表するに至っています。また、過去にも歌手・尾崎豊さんや俳優・川崎麻世さんとの交際が報じられるなど、結婚後も私生活がたびたび注目を浴びました。
最終的に、2024年春ごろに2人は離婚しています。離婚の理由や詳細は公にはされていませんが、長年の夫婦生活や数々の報道、そして家庭を取り巻く環境の変化が影響したと考えられます。離婚後も斉藤由貴さんは、子供たちや仕事への向き合い方を見直しつつ、新たな人生を歩み始めている状況です。芸能人でありながらも、家族の問題や夫婦の選択をどう受け止めていくのか、多くの人がその動向に注目しています。
曽祖父の事業失敗と移住の歴史
斉藤由貴さんの家系を紐解くと、父方の曽祖父・斉藤巳之助さんの人生が大きなターニングポイントとなっています。巳之助さんは秋田県横手市で生まれ育ち、地元では素封家(裕福な家柄)とされていました。ところが、農業や荷馬車業など様々な事業に挑戦したものの、事業は思うようにいかず、徐々に家計が傾いていきます。最終的には家族を残して仙台市へ職を求めて移住することになりました。移住のタイミングは大正時代から昭和初期と考えられています。
このような決断に至った背景には、当時の経済不況や農業経営の厳しさなど、社会全体の動きも影響していた可能性があります。結果として、巳之助さんの子供である巳一郎さん(斉藤由貴さんの祖父)は、父親の不在のまま母親とともに厳しい生活を強いられました。周囲の支援もありながら、巳一郎さんは母親の手ひとつで育てられ、貧しいながらも人並みの教育を受け、やがて官営の専売局に就職することができました。
仙台に移った巳之助さんの消息は、その後あまり語られていませんが、戸籍上では「不自然な形で除籍されている」と伝えられており、家族間の断絶が明らかです。こうした背景が、斉藤家の家族観や子育てに大きな影響を及ぼしていることは想像に難くありません。巳一郎さんは、苦労の末に安定した職を得ると、職場で「キヨさん」と出会い結婚しますが、この夫婦も後に離婚しています。離婚後、巳一郎さんは一時的に子供を引き取りましたが、最終的には子供たちも母親に預けられるなど、家族のかたちは度々変化を強いられてきました。
このような苦労を重ねながらも、斉藤由貴さんの父親・勉さんは、高校を卒業後、職人として自立し、次世代に家族をつないでいきます。曽祖父の事業失敗と移住の歴史は、斉藤家の苦労や粘り強さ、そして新しい土地で再出発する勇気の象徴とも言えるでしょう。
家系図に登場する渡辺家の名家伝説
斉藤由貴さんの母方の家系には、静岡県島田市の「渡辺家」という名家の伝説が語り継がれています。母方の曽祖母・弘子さんは、この渡辺家の三女として明治16年に生まれました。渡辺家は江戸時代から庄屋や名主を務めていた家柄で、地域社会に深く根付いた存在でした。特に父である渡辺真一さんは、明治22年に五和村の戸長に就任しており、当時の地元では有能な人物として知られていました。
この家系が名家と呼ばれる背景には、社会的地位だけでなく、地域に対する責任感やリーダーシップがあったことも挙げられます。例えば、渡辺真一さんは32歳という若さで村の戸長に抜擢されており、家柄だけでなく個人の資質も高く評価されていました。戸長という役職は、行政の中心人物であり、村人の信頼を集める必要がありました。そのため、江戸時代から受け継いできた信用や人脈が生きていたとも考えられます。
また、渡辺家は静岡市へ移住するなど、時代の変化に柔軟に対応していた点も特徴です。家系の中には、地元で有名な興行師・渡辺寛治さんといった人物もおり、ビジネスやエンタメの分野でもその名を残しています。さらに、曽祖母・弘子さん自身も水島吉太郎さんと結婚後、離婚や再婚を経験するなど、家族の形が複雑に変化していきました。
渡辺家の伝説や名家としての歴史は、斉藤由貴さんの家系図を語る上で欠かせないエピソードです。名家に生まれたことのメリットは、社会的な信用や教育の機会に恵まれやすいことですが、一方で家族や地域への責任、家系を守るプレッシャーなどの課題もあります。現代ではこうした名家の伝統は薄れつつありますが、斉藤由貴さんの家族史の中には、今も確かな影響を残しているといえるでしょう。
祖父母の仕事と戦後の活躍エピソード
斉藤由貴さんの祖父母、特に母方の水島吉男さんと君子さんの仕事や戦後の活躍は、家系全体に大きな影響を与えています。水島吉男さんは、幼少期に聴覚を失い、その後東京聾唖学校の裁縫科で技術を磨きました。卒業後は帯の仕立て職人として働き、やがて横浜市南区で「水島帯裁縫所」を再興しています。戦中戦後の混乱期には仕事が途絶え、駅で靴磨きをしたりと苦しい時期も経験しましたが、その明るい人柄と努力によって、進駐軍の購買部で働く機会を得るなど、新しいチャンスを自らつかんでいます。
昭和25年には帯仕立て業を本格的に再開し、聴覚障害者を積極的に雇用するなど、社会的な貢献にも力を入れました。水島吉男さんは、障害者の雇用拡大や社会参加の推進だけでなく、日本聾唖協会横浜部会の創設や、選挙演説に手話通訳を導入する運動を進めるなど、聴覚障害者の権利向上にも尽力しています。
君子さんもまた、同じく聴覚障害を持ちながら家業を支え、家族や職人仲間と共に働いてきました。こうした環境で育った斉藤由貴さんの母・淳さんは、家業の伝統を引き継ぎつつ、家族の絆や社会への貢献の精神を学んでいます。さらに昭和33年には、皇太子妃正田美智子さんの婚礼用の帯を仕立てるという大きな名誉を得て、職人としての実力が広く認められました。
戦後の混乱期を乗り越えた祖父母の努力や工夫、社会的なチャレンジ精神は、家族や地域社会にとっても誇りとなっています。障害があることで多くの苦労を強いられたものの、他人の支えとなり、新しい道を切り開いてきた祖父母の姿は、今も家族の精神的な支柱となっているのです。
まとめ:斉藤由貴の家系図から見える家族の歴史と特徴
- 母方・水島家は帯仕立て職人として横浜で代々続く家系
- 祖父・水島吉男さんは聴覚障害を抱えながら社会活動家としても活躍
- 正田美智子さんの婚礼帯を仕立てた名工として知られる
- 曽祖父・水島吉太郎さんは鉄道官僚として全国を転勤
- 曽祖母・弘子さんは静岡県島田市の名家・渡辺家の三女
- 渡辺家は江戸時代から庄屋を務めた地域の名家
- 父方・斉藤家のルーツは秋田県横手市の素封家
- 曽祖父・斉藤巳之助さんは事業失敗後、仙台へ移住
- 祖父・巳一郎さんは官営専売局に就職し安定を得た
- 父・斉藤勉さんは家具職人から帯職人へと転身
- 兄は防衛大学校出身で自衛官の道を歩んだ模範的存在
- 弟・斉藤隆治さんは元俳優で現在は一般社会で活動中
- 長女・水嶋凜さんは芸能界で活躍する二世女優
- 長男は学歴や大学名は非公開だが真面目な人物とされる
- 元夫・小井延安さんとはモルモン教の縁で結婚し離婚に至った
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